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竹の階段

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旧小学館文庫

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日本に最初の文庫本漫画ブームを生み出した小学館文庫。現代の廉価なコンビニ本的な立ち位置で売れ行きも好調でした。1976年に白土三平の「忍者武芸帳」をナンバリング上の第1号(3月に28冊同時発売)としてスタートし、1989年の「カムイ外伝」第19巻で新刊の発行を終了しました。全部で400冊ほどが発行されました。1989年4月の消費税法施行(税率3%)が終了の要因と思われます(定価記載カバーのすり替えにコストがかかる)。そのあと1994年に新装シリーズとして復活(1997年末からは漫画以外も本格始動)しますが、ここでは最初のシリーズのカバーコンセプトについてを紹介します。

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・初回ラインナップの載った栞(作者名五十音順)と、「真田剣流」第一巻発売時の書店掲示用ポスター(高さ363mm)

白土三平作品はこの小学館文庫で全13種(95冊)が刊行されました。そのうち「カムイ外伝」の19冊のみ表紙を白土自身が新たに描き下ろしています。漫画本の表紙とは思えない雰囲気を感じさせるイラストでしたが、これは小学館文庫全体のコンセプトであり、シリーズの全てがほぼ大人びた表紙画に統一されていました。




☆ ☆ ☆

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上のポジフィルムは水木しげる「墓場の鬼太郎」第2巻とつげ義春「紅い花」の小学館文庫表紙絵で、こちらは前衛的で不思議なものになっています。これら小学館文庫シリーズの表紙カバーの参考にされたのが、以下のイラスト類でした。当時の資料ファイルにはイメージの方向として以下のアーティストおよび単行本表紙等が資料として挙げられています。中でも武部本一郎のイラストが使われた「火星シリーズ」カバーが小学館文庫表紙のレイアウト元になったようです。


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・火星の幻兵団(火星シリーズ4)/エドガー・ライス・バローズ/1966年3月発行/創元推理文庫/東京創元社


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・蜃気楼の戦士/A・メリット/1970年9月発行/ハヤカワ文庫SF/早川書房
・時の深き淵より(太古世界シリーズ3)/エドガー・ライス・バロウズ/1971年3月発行/ハヤカワ文庫SF/早川書房
・コナンと髑髏の都(コナン・シリーズ1)/ロバート・E・ハワード/1971年4月発行/創元推理文庫/東京創元社


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・本邦東西朝縁起覚書/小松左京/1974年11月発行/ハヤカワ文庫JA/早川書房
・わがふるさとは黄泉の国/半村良/1975年8月発行/ハヤカワ文庫JA/早川書房
・連絡宇宙艦発進せよ!(銀河辺境シリーズ3)/A・バートラム・チャンドラー/1975年10月発行/ハヤカワ文庫SF/早川書房


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・映画「悪魔の追跡」(1975年)広告イラスト


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・I Know Who I love and other stories/Shirley Jackson/1971
・Revolt in 2100/Robert A Heinlein/1972
・The Sirens of Titan/Kurt Vonnegut Jr./1973


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・The Devil Tree/Jerzy Kosinski/1974
・Backflash(Simon Rack3)/Laurence James/1975
・The Old Man and The Sea/Ernest Hemingway


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・American Review20/E.L. Doctorow's/1954
・Science Fiction Hall of Fame(The Novellas Book3)/Ben Bova/1975


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以上、旧小学館文庫のカバーコンセプト元資料でした。















# by otherpost | 2022-02-10 09:54 | 白土作品

青林傑作シリーズ 全28巻

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1972年から1981年の10年間に亘って青林堂から刊行された漫画単行本「青林傑作シリーズ」全28冊。非常に丈夫な造りで、本体と帯がビニールカバーで圧着されている。前年の1971年には安価な「現代漫画家自選シリーズ」の刊行開始と白土三平「カムイ伝」のガロ連載終了があり、その一年後の青林堂暗黒期に刊行は開始された。誰もが長井勝一の手腕を疑った豪華製本シリーズ。

発行者:長井勝一 ←本日生誕99年記念!
印刷:光栄印刷
製本:笠松製本

これは長井が貸本時代の幻想に意識下で倣ったシリーズだったのではないかと思っている。

かつて社会の飢えた兵隊たちは、夕刻になると所属の集団から解放され、みずからの意思で狩猟におもむく。本日の全財産を元手に棚をながめるが、薄暗い空間に並ぶ本たちの表情は全て同じく魅力的である。判断を誤っても保証は何もなく、決断はまったくのあてずっぽうとなる。帰り道、かるく表紙を開いたワクワク感。読み終えると心はいつのまにか見知らぬ世界にとらわれていた。

この感覚を長井はシリーズどれも同じデザインの表紙にすることで再現したのだろう。大勢の手をわたっても、まわし読みされても、問題のない頑丈さである。汚れても拭けばきれいになる厚いビニールカバーは帯を包みこんでいるため、本たちはいつまでも鮮度よくみえる。私たちが情報を基礎とする前のロマンを含有したシリーズ。これに協力した作家たちが以下になる。

手塚治虫:1928.11.3-1989.2.9/満60歳没
滝田ゆう:1931.12.26-1990.8.25/満58歳没
白土三平:1932.2.15-
永島慎二:1937.7.8-2005.6.10/満67歳没
松本零士:1938.1.25-
矢口高雄:1939.10.28-
上村一夫:1940.3.7-1986.1.11/満45歳没
川本コオ:1941.2.25-
真崎 守:1941.3.10-
村野守美:1941.9.5-2011.3.7/満69歳没
楠 勝平:1944.1.17-1974.3.15/満30歳没
青柳裕介:1944.12.4-2001.8.9/満56歳没
宮谷一彦:1945.11.11-
つりたくにこ:1947.10.25-1985.6.14/満37歳没

シリーズの内計7冊(1,2,4,6,9,13,21)が永島慎二のもので、次に多いのが村野守美の短編集で計5冊(5,12,17,20,24)、続いて上村一夫が葛飾北斎の生涯を描いた「狂人関係」全4巻(7,11,15,19)、滝田ゆうの東京下町物語「寺島町奇譚」全2巻(3,27)、残りの10冊は一作家一冊の構成になっている。


ガロ作家というよりは「COM」から始まりガロにも描きだした永島慎二、虫プロの村野守美、真崎守らがフィーチャーされている理由については、以下つげ義春インタビューに詳しい。雑誌「COM」は1971年末に廃刊した(1973年に一回復刊)。
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川本三郎
永島慎二さんとは、お付き合いありましたか?

つげ義春
数年前に亡くなりましたが、デビューの頃からの知り合いです。歳は同じですが、彼は十五歳ぐらいから、自分は十七歳ぐらいから描きだしているので、漫画の世界では、彼が二年先輩なんです。永島さんは阿佐谷に住んでいて、「ガロ」発行元の青林堂社長の長井勝一さんも阿佐谷にいましたから、その関係で「COM」がなくなった後に「ガロ」でも描くようになりましたが、それで「ガロ」を離れていった人もいましてね。

川本三郎
「COM」と「ガロ」とでは、作風が違いますよね。

つげ義春
何となくみんな永島さんを敬遠するようになったんです。長井さんは、表現にこだわるような作風をあまり理解できなかったようで、永島さんのような作風を好んでいたんです。その頃から、だんだん「ガロ」の「ガロらしさ」がなくなっていきましたね。
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※雑誌「東京人」2014年7月号より



以下、各巻詳細


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●青林傑作シリーズ 1「漫画集 フーテン 上巻」永島慎二/1972年5月10日発行
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シリーズ黄色い涙/青春残酷物語 フーテン第一部 春の章
 No.1:「COM」1967年4-10月号(虫プロ)掲載
 No.2:「COM」1967年4-10月号(虫プロ)掲載
 No.3:「COM」1967年4-10月号(虫プロ)掲載

シリーズ黄色い涙/青春残酷物語 フーテン第二部 夏の章
 No.1:「COM」1967年11月号(虫プロ)掲載
 No.2:「プレイコミック」1968年10月号(秋田書店)掲載(はたちの夜)
 No.3:「COM」1967年12月号(虫プロ)掲載
 No.4:「COM」1968年1月号(虫プロ)掲載

・著者近影(撮影:小目出卓)
・永島慎二氏の人と作品(文:手塚治虫)1967.10.30
・あの頃のこと(文:永島慎二)
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連作「フーテン」のシリーズ前半を収録。初期のものは表紙に「青林傑作シリーズ 1」表記なし。


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●青林傑作シリーズ 2「漫画集 フーテン 下巻」永島慎二/1972年5月20日発行
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シリーズ黄色い涙/青春残酷物語 フーテン第二部 夏の章
 No.5:「COM」1968年2月号(虫プロ)掲載
 No.6:「プレイコミック」1969年12月号(秋田書店)掲載
 No.7:「プレイコミック」1970年1月号(秋田書店)掲載
 No.8:「プレイコミック」1970年4月号(秋田書店)掲載
 No.9:「プレイコミック」1970年6月号(秋田書店)掲載

シリーズ黄色い涙/青春残酷物語 フーテン第三部 秋の章
 No.1:「COM」1968年3月号(虫プロ)掲載
 No.2:「月刊漫画ガロ」1969年11月号(青林堂)掲載(漂流者たち)
 No.3:「プレイコミック」1968年7月号(秋田書店)掲載(星の降った夜)
 No.4:「プレイコミック」1970年7月号(秋田書店)掲載

・その後のこと(文:永島慎二)1972.3.10
・拝啓 読者どの(文:永島慎二)1970.4
・読者のみなさん(文:永島慎二)1970.7.17
・非小説 白菊 永島慎二のひとつの世界より:「刑事」1960年掲載
・永島慎二全作品リスト
・永島慎二全著書リスト
・スクラップ 年代順アルバム(近影写真26点)
・21世紀の精神分裂症患者(文:永島慎二)1970年5月
・いつも本気であると言うこと(文:東京ムービー演出家 遠藤政治)
・新宿のジプシーたち(文:思想の科学会員 渡辺一衛)
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連作「フーテン」のシリーズ後半を収録。初期のものは表紙に「青林傑作シリーズ 2」表記なし。


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●青林傑作シリーズ 3「寺島町奇譚」滝田ゆう/1976年4月20日発行
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寺島町奇譚
 どぜうの命日
 ぎんながし
 おはぐろどぶ
 げんまいパンのホヤホヤ
 日和下駄
 エジソンバンド
 花あらしの頃
 うぬぼれ鏡
 萬古屋事件始末

・阿呆陀羅にゃんにゃん(文:滝田ゆう)
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連作「寺島町奇譚」のシリーズ前半を収録。カラー口絵2点は辰巳義興・渡部郁子所蔵。現代漫画家自選シリーズ5「ぬけられます-寺島町奇譚-」(1971年12月10日発行)との重複を避けた内容。のちに表紙絵の異なる「青林傑作シリーズ 3」表記の改訂版(1980年4月15日発行)となり、「青林傑作シリーズ 27」に収録の「うぬぼれ鏡」と「萬古屋事件始末」は省かれる。くわしくは下の「青林傑作シリーズ 27」の解説で述べる。


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●青林傑作シリーズ 4「漫画集 黄色い涙 若者たち」永島慎二/1976年8月5日発行
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黄色い涙
 小さな城
 晩秋
 冬の恋
 春の吹雪
 初夏と汗
 美酒の香り
 太陽と海と悲しみと
 ある恋の物語
 シェンシェイの場合
 望郷
 春告鳥

・NHK銀河テレビ小説「黄色い涙」より(写真3点)
・「黄色い涙」は私の代表作です(文:元NHKディレクター 鈴木基治)
・飄飄と生きる事のなんと難しい事か…(文:漫画家 むらおか栄一)1976.5.28
・永島さんというのはきっと恋惑いの人にちがいない(文:俳優 森本レオ)
・恋人・永島慎二(文:ぽえむチェーン主宰者 山内豊之)
・「若者たち」テレビ化の頃(文:永島慎二)
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連作「フーテン」のシリーズ後半を収録。初期のものは表紙に「青林傑作シリーズ 4」表記なし。


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●青林傑作シリーズ 5「だめ鬼」村野守美/1976年10月20日発行
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だめ鬼(原始民語大嘘話その壱)
せんぷうき
パッチン(村野「英雄伝」より)
撃沈
いきんぼ
鯉のジョーズ
ハイッ・・小学一年生
悪党狂騒曲
OH!GOD ニューヨークの神様

・優しい豪傑(文:漫画アクション編集長 堤任)
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短編集1/5。


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●青林傑作シリーズ 6「その場しのぎの犯罪 第一部」永島慎二/1977年4月10日発行
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その場しのぎの犯罪 第一部
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●青林傑作シリーズ 7「狂人関係 第一部」上村一夫/1977年4月25日発行
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狂人関係 第一部
 其の壱
 其の弐
 其の参
 其の四(寒椿)
 其の五(お七 七草)
 其の六
 其の七(花だより)
 其の八(母 前編)
 其の九(母 後篇)
 其の十(お栄のこと)

・風狂の人(文:久世光彦)
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1/4。


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●青林傑作シリーズ 8「青春相続人」宮谷一彦/1977年6月25日発行
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悲しき天使
夕凪船長
ワンペア プラス ワン・・・・・
雪原より遠くはなれて
ぬくもり
滑走路
青春相続人
はっぴぃえんど

・ライナーノート(文:宮谷一彦)1977.5.5
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短編集。


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●青林傑作シリーズ 9「花いちもんめ」永島慎二/1977年8月30日発行
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花いちもんめ(カラー扉)
その周辺
北斗七星
残光
ぼくの手塚治虫先生,
この街あの頃

・永島慎二とその仲間
・街々のキッサ店にたくさんのダンさんがいる様な気がして……。(文:フォークシンガー 三上寛)
・永島慎二に聞く(聞き手:関口シュン)
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短編集。


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●青林傑作シリーズ 10「白い伝説」真崎守/1977年9月15日発行
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白い伝説(原作:小泉八雲)
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●青林傑作シリーズ 11「狂人関係 第二部」上村一夫/1977年11月5日発行
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狂人関係 第二部
 其の十一(まどろみ)
 其の十二(鎌鼬)
 其の十三(雛人形夢反故裏)
 其の十四(屁熊)
 其の十五(花筏)
 其の十六(春と修羅)
 其の十七(蕗味噌)
 其の十八(鬼哭)
 其の十九(はるかぜ地獄篇 前篇)
 其の二十(はるかぜ地獄篇 後篇)
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2/4。


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●青林傑作シリーズ 12「泥沼 どぶだめ」村野守美/1977年12月10日発行
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泥沼 どぶだめ
残桜
地蔵峠
昇り凧
しま
関白さん
カタカタ
ちんちりりん
残火 ざんか
東京日日新聞より しゃうぢきしゃふ

・K君へ(文:漫画アクション編集長 堤任)
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短編集2/5。


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●青林傑作シリーズ 13「港野郎にきをつけろ!」永島慎二/1978年2月15日発行
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港野郎にきをつけろ!
夜歩く鉄人(ニッポンGメン星方行助の冒険より)

・今はむかし・・・・(文:永島慎二)1978.1.11
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●青林傑作シリーズ 14「親子知讃歌」松本零士/1978年3月20日発行
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親子知讃歌 おやしらずさんか
昆虫国漂流記

・零士さん(文:野口文雄)
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●青林傑作シリーズ 15「狂人関係 第三部」上村一夫/1978年5月10日発行
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狂人関係 第三部
 其の二十一(世間噺)
 其の二十二(新宿遊侠伝)
 其の二十三(夜鷹蕎麦)
 其の二十四(お七炎歌)
 其の二十五(十三夜)
 其の二十六(風の炎)
 其の二十七(花道)
 其の二十八(お七涅槃図)
 其の二十九(冥途)
 其の三十(骨違い)
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3/4。


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●青林傑作シリーズ 16「よさこい節」青柳裕介/1978年6月20日発行
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与作とエンコウ
○○○あ 微笑んでくれた
なきやの留さん
湯の町
月夜のれんげ畑
よさこい節
ヤンーレエ祭だぁ
赤ふんどし寝話
どさんせん(土讃線)
男歌
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短編集。


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●青林傑作シリーズ 17「秘戯御法 ひぎぎょほう」村野守美/1978年7月20日発行
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四ッ目美濃屋
蜘蛛
絵師
ペイコ
淫魔寺
火の用心
秘戯御法 ひぎぎょほう

・鬼子母神(文:村野守美)
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短編集3/5。


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●青林傑作シリーズ 18「おせん」楠勝平/1978年8月15日発行
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殿さまとざらざらした味
いざかや
おせん
どろ棒とこん棒
茎 前篇
茎 後篇
ふじが咲いた
あらさのさー
ゴセの流れ
彩雪に舞う

・楠勝平論ノート(文:石子順造)
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短編集。楠勝平は1974年3月に亡くなっているので、この本のみ作者没後の刊行。青林堂は1975年3月に500部限定の追悼本「楠勝平作品集」(3200円)を発行し、これは同じA5サイズで1200円なので、その廉価版の意味合いの刊行でもある。収録内容は「名刀」が「殿さまとざらざらした味」に入れ替わったのみであとは同じ。


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●青林傑作シリーズ 19「狂人関係 第四部」上村一夫/1978年9月20日発行
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狂人関係 第四部
 其の三十一(蔦屋重三郎の切腹)
 其の三十二(少し寂しい 前篇)
 其の三十三(少し寂しい 後篇)
 其の三十四(負けいくさ)
 其の三十五(眠れ茱萸の樹)
 其の三十六(眠れ茱萸の樹 後篇)
 其の三十七(人情噺魚屋島吉 前篇)
 其の三十八(人情噺魚屋島吉 後篇)
 其の三十九(名月記 前篇)
 其の四十(名月記 後篇)
 其の四十一(抜け雀)
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4/4。


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●青林傑作シリーズ 20「媚薬行 びやくこう」村野守美/1978年10月20日発行
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四ツ目屋
小塚ッ原異聞
四ツ目屋始末
三匹の山師
盲妹考
雪風老人
春雷
無情
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短編集4/5。


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●青林傑作シリーズ 21「その場しのぎの犯罪 第二部」永島慎二/1978年11月20日発行
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その場しのぎの犯罪 第二部

・そのばしのぎをおわります.(文:永島慎二)
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●青林傑作シリーズ 22「ブルーセックス」川本コオ/1979年1月20日発行
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忘れな橋
記念写真
すっぱい季節
未鬼子
少女のいる風景
砂の季節
どろんこマーチ
小さな旅
熱い夏の予感
FLYING OFFふらいんぐ・おふ

・「君達男の子・ゴー・コオ。」(文:歌手 三上寛)
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短編集。


青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_23492135.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01294425.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01294745.jpg
●青林傑作シリーズ 23「六の宮姫子の悲劇」つりたくにこ/1979年3月15日発行
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六の宮姫子の悲劇
ジンロク
マダム・ハルコ
ナンセンス
アンチ
MAX マックス
MONEY
ジャムの壺
彼等
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短編集。


青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_23492510.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01300806.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01301157.jpg
●青林傑作シリーズ 24「龍神」村野守美/1979年6月5日発行
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龍神
ブンブン
影鬼
迷い子石
てっぽう
ガラランラン
いも
もののふの道

・土竜 もぐら(文:村野守美)
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短編集5/5。


青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_23493009.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01310297.jpg青林傑作シリーズ 全28巻_c0122226_01310509.jpg
●青林傑作シリーズ 25「サロメの唇」手塚治虫/1979年8月5日発行
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ペーター・キュルテンの記録
サロメの唇
イエロー・ダスト
最上殿始末
火の山

・ちかごろ、手塚さんについて感じていること(文:まんが家 真崎守)
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短編集。


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●青林傑作シリーズ 26「傀儡がえし」白土三平/1979年11月25日発行
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ざしきわらし
赤い竹
異変
傀儡がえし
粉忍
無三四
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短編集。このガロ創立者白土三平本のみは口絵もカラーも寄稿も、サービスなしのいさぎよさ。この単行本発行の打診で香田明子さんが白土に会いに行った折「第二部はまだ出ないんですか」と聞き、白土は「出す時期を逃してしまった」と答えている(コミックボックス1996年5月号)。


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●青林傑作シリーズ 27「ぬけられます」滝田ゆう/1980年1月10日発行
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寺島町奇譚
 ぬけられます
 定九郎の口紅
 萬古屋事件始末
 うぬぼれ鏡
長い道
あしがる a poor man
しずく
死に急ぎの記録
マイ・ゴーストタウン
彼女の世界
ラララの恋人
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連作「寺島町奇譚」シリーズの後半および、こうの史代のバイブルである全8頁の名作「長い道」を含む7つの短編作品を収録。収録内容は現代漫画家自選シリーズ5「ぬけられます-寺島町奇譚-」(1971年12月10日発行)と重複するものが多い。くわしくは「あいつ」とちょんまげオムニバス「うわさの系譜」12作品(星の流れ/からまわり/幕尻/まきぞえ/女の宿/同志諸君/参加/まるごし会談/涙の連判状/隠密無情/さんりんぼう/本番)が省かれ、寺島町奇譚の「萬古屋事件始末」「うぬぼれ鏡」が含まれた。「萬古屋事件始末」「うぬぼれ鏡」は先の「青林傑作シリーズ 3」と重複しているが、直後に発行された「青林傑作シリーズ 3」の再版本(改訂版)で省かれた。おそらく、この本は現代漫画家自選シリーズ5と同じ内容で発行する予定だった(カラーの口絵2枚も同じ)ものが、先の分厚い「青林傑作シリーズ 3」のページ数削減をしたかった考えがあり、このような収録内容に変更されたものと思われる。ちなみに滝田ゆう漫画館第5巻「ネコ右衛門太平記」(1992年7月15日発行)には表題作「ネコ右衛門太平記」のほかにオムニバス「うわさの系譜」12作品と「しずく」が併載されている。


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●青林傑作シリーズ 28「チライ・アパッポ」矢口高雄/1981年1月15日発行
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チライ・アパッポ
いろはとんぼ
ひとつねた
長持唄考
狐の棲む里
みなぐろ
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短編集。カラー口絵なし。「チライ・アパッポ」は巻頭8枚が2色カラー。ガロ掲載の初期作品「ひとつねた」「長持唄考」「狐の棲む里」「みなぐろ」が、一切改稿なしに収録されている(つまりガロと同一)。「月刊漫画ガロ」1969年4月号に発表されたデビュー作品「長持唄考」は、この本と「木造モルタルの王国」(1984年12月1日発行)に収録されているのみであるが、1972年にリライト版の「長持唄裁判」、1994年にさらなるリライト版の「長持唄考」が発表されている。















# by otherpost | 2020-04-14 02:06 | その他

ゆづるとひかる

書籍「四巻の書」を書いていた頃、突如、頭の中に声が響いてきました。

これを文字におこしてみると、以下のようなものでした(○は聞きとれず)。

○○○、○○○○ている、ゆづるにある、ひかるにある


スピリチュアルか、オカルトか、私の意識となにかが呼応したのかも知れません。

おぼろげながらも、日本の弓にとって一番大事な言葉のように感じました。


この二つはなぜセットになっているのだろう。
「ゆづる」は弓の弦?ゆずる?ゆずりあい?
「ひかる」はぴかー?光源氏?

などと意味がわからなかったので、当時はそのまま心の中にとどめ置くのみでした。


これについて、今回あらためて考えてみることにしました。


「ゆづる」

梓弓 末之腹野爾 鷹田爲 君之弓食之 將絕跡念甕屋
あづさゆみ すゑのはらのに とがりする きみがゆづるの たえむとおもへや

万葉集の第11巻2638番歌に弓食と書いて「ゆづる」と訓む言葉が出てきます。
この言葉については現在まで完全な謎となっており、便宜上「弓弦」と置きかえ理解されています。
「食」も「弦」も消耗するものなので「食」の文字の意味にこだわる研究者は平安以降いなかったようです。
というよりも当時から意味がわからなかったので、そう理解するほかありませんでした。

歌を訳すると以下のようになります。

弓の上部(末)をふくらまし(腹野)日々生活(鳥狩)するあなたの消費(弓食)が長く絶えることのないよう


「ひかる」

・日(の力)を借る
・日(によって芽出たもの)を刈る
・日々狩る

これは命の力の根源をあらわす言葉になりますでしょうか。


今この時点で理解できたとは思えませんが、なんとなく思うところとしては「ゆづる」「ひかる」は生きること。
きて、さる、の同時進行。
この仕組みを今風の言葉でいえば、「動的平衡」になりますでしょうか。


たしかにたしかに、いつの世も変わらない一番大切なことのようであります。


ゆづるとひかる_c0122226_10385129.jpg


















※蛇足:折口信夫(本名:おりくちしのぶ、通称:のぶお)が満30歳の時に刊行した2638番歌の以下口語訳は、陶(すえ、やきもの)の里という解釈が無駄であり、弦の作用の一面のみを強調して「二人の中を切ってしまおう」などとしているため「狩り」との分断を生み、深みの無いものになってしまっている。ただ、折口は主題とは異なりながらも地域性や共同体の内からの感傷としてこの歌を捉えようとしている面で、彼の一貫した思想への評価から外れるものにはなっていない

陶の里の野原で、狩りをなさるあなたの弓の弦ではないが、二人の中を切ってしまおう、とは思いましょうか。思いませぬ。

この歌に関しては昔から「院御歌合」(1247年)70番の「雪だから末の腹野には人がいない」「いやそれでも鳥狩の人はいるはずだ」とかのどうしようもない記録が残っているくらいで、あまり評価されてこなかったのだろう。


# by otherpost | 2020-01-04 09:28

斜面、正面、統一射法

「斜面」

・左肘を伸ばす
・胸を開く
・矢を放つ

ただ弓を引くことにおいての射法の基本。シンプルで美しい。現在では"まず左肘からすすむ射法"を総称して「斜面」と呼ばれる。



「正面」

・弓を体正面に持ち上げる(弓と弦の中央に的をおく)
・左肘を伸ばしていく(両拳の中央に的を保ったまま)
・的を引き付けて矢を放つ

「正面」は小笠原流の馬上射法。走る馬上で弓を引く「流鏑馬」において、これが一番合理的な射法ということで、1724年、八代将軍吉宗の世に定まる。動く的を外さない方法であり、頭上に笠もあるため打上げは正面となる。走る馬の上で安定して矢を放つ「流鏑馬」の射法は技術的に弓射における最高峰というべきだろう。流鏑馬射手が歩射において動かない的を射ることはかんたんであっても、歩射の者が馬の上で確実に的をとらえられるようになるには、もちろんさらなる修行を必要とするのである。

さて歩射においては本来正面に打上げる必要はないが、馬上の前段階としての正面射および、流鏑馬射手を模倣した歩射「正面」をおこなう旗本たちが江戸の町にある程度はいた。傍観者にとっては馬上からの的が遠ければ全くの正面に打上げて見えただろうし、的が近ければ少し左寄りに打上げて見えただろう。よってこれを模倣し歩射でおこなった場合には、全くの正面に打上げる者と、少し左寄りに打上げる者がいた。明治時代、元旗本家でほかの旗本たちと交流のあった本多利實(1836-1917)の登場とその影響により、歩射で「正面」をおこなう者の割合が格段に増えることになる(利實は父本多利重とともに小笠原流に入門もしている)。

利實は射法だけでなく、自然と胴造りにおいても流鏑馬馬上射手の模倣(もしくはそれを歩射でおこなう者の倣い)を遂行したとみている。騎射射手は馬から尻を浮かせ、後ろ腰に台を作るような姿勢をとることで、背にある矢箱内の矢を安定して乱れず抜く。「正面」は途中でとどめずとも大きく引くことが出来る射形だが、この胴造りが組み合わさることで、剛い弓でも射行をすばやくおこなうことが出来た(力士の要領である)。一日2000本の指矢稽古をおこなうような利實にとって、流鏑馬と同様、"速さ"は重要な要素だった(歩射は三つかけが順当だが、利實は数をおこなうので四つかけを使用した)。「四巻の書」の「胴造之事」項に「馬に乗る真の鞍の内のごとし」(拙著参照)とあることも、馬を好む利實がこれをおこなう一因ではなかっただろうか。「本多流」を自称する利實がカリスマ的影響力をもったことで、この胴造りも日本を席捲する。利實の弟子たちはもちろん利實の胴造りをおこなった。阿波研造(1880-1939)など弟子の射形において胸が張り腹が引っ込んでみえるのはそのためである(正面からの写真では判り難いが)。阿波が「とてもかなわぬ」と仰いだ利實の写真を見るかぎり、馬上においても崩れそうにないまっすぐで力強い上半身にみえる。先入観として歩射弓の基準のみを知る者は、これを"出尻鳩胸"などと揶揄する。


斜面、正面、統一射法_c0122226_17464735.jpg斜面、正面、統一射法_c0122226_17465381.jpg
※本多利實(1904年頃)と阿波研造(1935年夏)、後色加工


ただ、時代は「健康医学」(現在としては卦体な面もある)に基づいた体作を求めるようになる。以下はかつて利實の弟子であった祝部至善(1882-1974)による文章。祝部は「健康医学」に基づき、"まっすぐな"胴造りに移行した。第一図(右)が利實由来の胴造り、第二図(左)が「健康医学」に基づいた胴造り。祝部は秀抜な記憶力をもち、明治期の博多のまちの風俗絵を後世に残したことでも有名である。

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斜面、正面、統一射法_c0122226_22053102.jpg
前屈、後退、左傾右傾、これが認むべきものでないことは当然で、すでに前にも言を賑やかにして申しましたから略しますが、その「中正体」の直立すというのに正反対とも見られる二様のあることは知っておくべきものでしょう。

第一図のほうは、脊柱骨を一枝一枝下から順々に詰めるという心持ち、勢い腰が詰まって胸が張り出ます。そうしますと袴の板腰は脊骨にひっつく気持ちになり、臍(へそ)が下向きになります。そしてこの姿勢では特に足の後ろのふくらはぎを張って、両膝の皿を上に引き上げるという言葉がありまして両足に意識的に力を入れて、足の裏は力強く大地を踏めという教えであります。体勢が前に張り出しているために、勢い体の重心は足のつま先のほうに寄ってきます。

第二図のほうは脊柱骨を詰めて伸ばすということをしないのです。したがって脊柱骨は前に張らないばかりでなく直線でもなく、解剖図を見るように、ごく軽いS字型をなしております。そして特に心窩(みぞおち)を柔らかにする。すなわちみぞおちを落とすということに重点を置きます。みぞおちを指先で押してもふわふわするように柔らかにしておく代わりに、下腹部に力を入れて臍(へそ)のすぐ上より前に張り出させます。勢い臍(へそ)は上向きになります。そして足踏みには力を入れず、体の重心はかかとに集めた感じですが、体勢からすれば足の裏いっぱいに受けているものと思います。

二流いずれが良いとも正しいとも批判はしません。なぜなら二法とも的中にも美醜にも関係はなく、専門的に医学者に評をさせれば、種々の説がありましょうけれども、それが直ちに生命に関係があるわけではないのですから、その好むに任せていてよいほどのものですが、私は以前には第一図のほうを信じて相当長く慣れていましたが、あとに第二図のほうを習ってからは、心窩(みぞおち)を柔らかくするということと、臍(へそ)を上向けにするということが、健康のみの専門姿勢と一致する点があり、足に力を入るればかえって慄(ふる)いを誘う気味がありますので、足は自然にまかせ今は第二図のほうをおこないかつほかにも薦めています。
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※「武弓」1940年2月号より/祝部至善筆





「要則射法」(統一射法)

「斜面」(押し開いて打ち起こす)と「正面」(打ち上げて押し開く)の中間の形をおこなう射法。つまりは、打ち上げつつ押し開く。この射法は1934年、武徳会の要請で全国の射法の統一を目的として制定された。制定時、射形制定委員会にこれを自身のおこなう「正面」「斜面」よりも好ましいと思う者は一人もいなかったが、射形を統一したいということにおいては全員一致で賛成だった。弓人は己の民族主義に走り他方を批判する場合が多く、稽古のセクターに他方を受け入れない。それによって自身と射形が異なる地域に移った者、おもに学生たちが弓の世界から離れてしまうことが多かった。そのような自分たちの抱える難題を解決するために"統一"を選んだのである。

「要則射法」制定後の争いは、上述の祝部至善と、同じく利實の弟子であった根矢鹿兒(1874-1951)を中心として起こった。じつは二人とも「正面」への統一を心に抱いており、目的は同じだったが、その方法が異なっていたのである。

「要則射法」推進派の祝部は、「要則射法」を「正面」射法への統一の移行期間とみていた。なぜならこの射法は"初級者にとって難しい"という最大の欠点を抱えていたからだ(時代をさかのぼると、先に左肘を伸ばす日置流射法が日本を席巻した理由も同じだろう)。祝部は当初から初級者には「少し斜め上への正面打ち上げ」、次に「大三(肘力)」と、二段階に分けておこなうことを推奨している。そして1940年春、以下の文章を発表した。

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要則の打ち起こしは、時代逆行的に難しくした観がある。ゆえに要則打ち起こしもある時期がきたならば、二挙動に割るうまさが採用されるのではないかと思う。どう二挙動に割るか、左構え式に押し開いて打ち起こすか、正面式に打ち起こして後に押し開くかにあるが、体育的価値が重視される関係上後者であろうことに問題はない、しからばある時期とはいつか。要則が制定された頃までは、左構えの人たちは、そのくだり馴れた構えよりも一寸も前には出されないと頑張ったものである。それが要則の力で斜前まで出されて来たのだから、出してみれば正面にでも出せぬことはないと同意した時が時期である。
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※「武弓」1940年3月号より/祝部至善筆

要約すると、「要則射法」は難しいため、「斜面」か「正面」のようにするべきだ、それなら(健康医学上)「正面」のほうだろう、「斜面」の者たちも数年間「要則射法」をやってきて「正面」ぽさに馴れてきたであろう、といった内容だった。宇野要三郎や浦上栄なども「要則射法」を推奨していたが、このような兆しにどこまで気がついていただろうか。

一方、「要則射法」批判の急先鋒であった根矢は陸軍軍医の中村愛助をつかい、医学的根拠をもとに「要則射法」の批判を大手新聞紙上などで展開した。打撃が決定的となったのは、1941年の「軍医団雑誌」337号に載せた記事であった。医学用語を駆使し、もっともらしくレントゲン写真を載せ、「要則射法」(および斜面)は脊柱を曲げるが、「正面」は健康体育に適いとても素晴らしいとうたった詳細な記事である。弓道練習直後に喀血して死んだ者もいるとか、全世界有数の結核国日本のこれが発生誘因だとか、記事はお茶の間にディストピアを想像させるには十分であった。

推進者側は、脊柱が曲がるわけがない(当たり前)と反論し、「正面」だって悪癖の何パーセントかは脊柱が曲がる(そんなわけがない)と認めさせる(!)など抵抗したが、「健康医学」との融合を進もうとする当時の弓人たちが、国の権威ある「健康医学」に反論されてしまったことで、弓人のみならず一般のイメージとしても世の空気がそちらに傾いてしまったのである。

1942年3月、新武徳会発足。それによった全日本弓道連盟結成提案の会合が5月に開かれたが、この場では射型問題はデリケートなこととして避けられた。ただ、この会の様子を報告する「日本の弓道」の記事の一部が世の空気をあらわしている。

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射型の問題

次に取り上げられた問題は射型の問題で、思わず満場は固唾をのんだのである。しかも質問者は一過の解決案をもっていた。これに対してこの問題は従来の経過に徴するも、また実際上から見るも、きわめて重大なかつデリケートな問題として新団体結成の当初から考慮されているが、なお容易に具体化すべくもない。今後ひきつづき十分に研究され成案を得れば、「教範」として発表さるるもののごとくに思惟されるむね武道官の説明があり、一同気負い負けがして、たがいに顔を見合わせたという程度であったが、五日、武道官の礼射は大体の傾向を暗示していた。

この問題については小誌も責任を感じるものである。新たなる構想と機構組織により時局下総合団体が結成され国家の要請に応じて起こった以上、射形もある程度まで統一さるごときは望ましいことであるが、そのために再び論争を繰り返すことはむしろ避けるにしかない。ことに一部の者がさきに口舌上にこねあげた射型のごときは、もはや多く顧みる人は無いのである。不幸にしてこの射型を修練した犠牲者も、自殺的に自己天賦の筋骨を尅する能わず。自然に異色を出し、その数ほとんど百数十ほどにものぼると評せられ、七花八裂の惨状、醜態は面をおおわしむるものあるとともに、当時のごとく極端に不合理な行きかたもまた見ることは出来なくなっている。いわんやその当時の有力な支持者・主張者にして、早くすでに旧来の射型に転向した者もすくなくないのである。かかる点からいえば、かの射型のごときは、たまたま適者生存の理を裏書きして早晩消滅するものとみて大差ないのである。しかれども新武徳会にしてまことに射型を樹立せんとするならば、第一に初学者、青少年者および女子のために十分に研究して合理的なものを「教範」とし発表することは邦国斯道のため、また新武徳会の使命の上からも最も肝要なことである。今日のごとき射型の混乱をそのままに放置し、第二国民の体位と健康を犠牲にするもののごとき感を抱かせることは新武道界の威信を傷つけ、その前途を不安ならしむるものではあるまいか。
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※「日本の弓道」1942年5月号より/桑村常之助筆

かつて弓人上層部の全員賛成で決定した「要則射法」は、上層部メンバーがたいして変わっていないにもかかわらず、誰か悪いやつが勝手に作って広めたことになり、コテンパンに批判されたのである。1944年、武徳会弓道部(会長:宇野要三郎)は「正面」「斜面」を復活採用し、悪のイメージが付いた「要則射法」をおこなう者は以降消えていくのであった。

このように「要則射法」はその目的を達することなく、射型に対する批判によって消滅してしまった。体育健康に良くないというのは単なる妄想だが、非難のブームになってしまえば消えざるをえない。ただ、もし根矢の行動が無く「要則射法」が長く続いていれば、弓道団体は未来できっと「要則射法」という名の「正面」に統一していたことだろう。少数派であった「斜面」の危機を救ったのが「正面」推進者だったというのは皮肉なことである。

射法としては左右同時におこなうため、すべての射形の行書体とも言えなくもない。もしかしたら実戦上において弓の達人は実用上ほとんど「要則射法」のように弓を引いていたのかもしれない。最初から会近くまでもってくる蟇目は別として、少なくとも熟練者は打ち上げ後や射の移行中に暫時むやみにとどめるということは、生きた弓の世界を前提とする上ではできるだけ避けたいものである。江戸期の堂射(通し矢)をルーツとする一部の斜面射法には、射の移行中に射行を一寸とどめる「大三」という所作がある(本多利實は「正面」においてもこれを採用した)。これは小笠原流の馬上射法では射行前に胸の前で一度構える所作にあたいし、対象物との距離が同じな速射において一射一射落ち着かせ精度を上げる意味合いの所作である。ただ明治期以降、斜面射法においても"大きく"引く新しい形が推奨されるようになってからは、これが剛い弓を斜面で"大きく"引くために必須な所作であるために、おこなう弓人が増えた。元来斜面は勝手を耳の上から大きく下ろすものではないのである。




※2018年10月28日小笠原流展「木馬の型公開演武」ソラシティ軍艦山於


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まとめ
《現代日本の歩射における正面射法ができるまで》

徳川幕府の弓射手の最高峰として小笠原流の騎射射手が江戸に存在(ヒーロー)。

騎射の前段階として歩射においてそれをおこなう小笠原流射手および、その模倣をおこなう旗本が江戸に存在。

明治時代、元旗本の本多利實がそれを全国に広めることにより、騎射の前段階としてではない正面歩射射手の誕生となる。
(ただ「理念」においては、本多の父が江戸竹林派の射手であったことと、外から本多が紀州竹林派の伝書を入手したことから、小笠原流には存在しない「大三」という形や「七道」など竹林派のものを使用)

本多の弟子の時代に胴造りがまっすぐに改良される。武徳会および全日本弓道連盟といった統一組織が、おこなうものの多いこれをメインの射形として採用。
現在に至る
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# by otherpost | 2019-09-10 01:39 | 弓道

新装版と弓道標語の発音唱和

新装版と弓道標語の発音唱和_c0122226_20103329.jpg

<<紙の書籍の要望が多かったので、オンデマンド新装本をやっと作りました。kindle版と同じく第二巻(歌智射)の構成をスマートにし、文字の大きさや割付などを読みやすくしました● 弓道の原点 四巻の書 >>


学校など、標語をみんなで読み上げる唱和文化によって、弓道標語「礼記射義」と「射法訓」の音読のために検索来訪される方が少なからずいるようです。そこで読み方というよりは、よみがなでもふりがなでもなくひらがなな発音カナ、ともかく実音発声版を作ってみました。

らいき しゃぎ
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しゃわ しんたいしゅーせん
かならずれーにあたり

うち こころざしただしく
そと たいなおくして
しかるのちにゆみやをとることしんこなり

ゆみやをとることしんこにして
しかるのちにもってあたるとゆーべし

これもってとっこーをみるべし

しゃわじんのみちなり
しゃわただしきをおのれにもとむ

おのれただしくして しこーしてのちはっす

はっしてあたらざるときわ
すなわちおのれにかつものをうらみず
かえってこれをおのれにもとむるのみ
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"徳行"の文字は、旧ルビを打てば「とくかう」ですが、「とくこう」「とっこう」とは発音しません。昔から「とっこー」「とっこお」と読み上げます。たとえば「今日の」を「きょうの」と発声する日本人はほとんどいません。口に出すときは「きょーの」「きのーの」になります。たまに地域の放送で、小学生が「きょ・う・も・い・ち・に・ち」と原稿を読まされている音声を聴くことがありますが、とても変です(かわいい)。


しゃほーくん(よしみじゅんせー)
-----------------------------------
しゃほーわ ゆみをいずして
ほねをいることもっともかんよーなり

こころをそーたいのちゅーおーにおき
しこーしてゆんでさんぶんのにつるをおし
めてさんぶんのいちゆみをひき
しこーしてこころをおさむ これわごーなり

しかるのち むねのなかすじにしたがい
よろしくさゆーにわかるるごとく これをはなつべし

しょにいわく
てっせきあい こくして ひのいずることきゅーなり
すなわちきんたいはくしょく にしはんげつのくらいなり
-----------------------------------

"而して"は旧ルビを打てば「しかうして」。昔から「しこおして(↓↑↑↑↑)」と読み上げます(発音声は「思考して」と同じ)。ただ、現代ではむやみに荘厳な感じを出して「しこおして(↓↑↓↓↓)」と読み上げる人を多くみます(発音声は「ステータス」みたいな)。古い人間がいなくなったためか、読み上げる場合は「しかして」が正しいのではないかと言う人も出てきていますが、昔はこれを「しかして」と読み上げる者などほとんどいませんでした。"相剋"は「四巻の書」では旧ルビ「さうこく」の単語ですが、標語自体に「あいこく」のルビが付加されているのでこのように読み上げます。"金体"は「四巻の書」の内容に即して旧ルビを打てば「こんたい」ですが、標語としては宇野要三郎氏の「金星」に即しているため、このように「きんたい」と読み上げます。いずれにしても、唱和する場合はこの標語を作成構築した宇野氏の意図に沿うことが第一かと思われますので、"白色"は宇野氏の著述にルビある「はくじき」でも可かと思われます。


ブログを訪れる人の「礼記射義」「射法訓」にともなう複合ワードとして「要点」「覚え方」というのも多くあります。標語に対しての「要点」は求めること自体不必要ですが、これは日本弓道連盟の試験(審査)でのみ求められることで、弓道教本の教えに即した理念をきちんと筆記できるかが験されています。「覚え方」は一字一句違わず丸暗記するためのもので、学校の部活動初期に求められるようです。ほかの複合ワードに「解説」「訳」「意味」というのもありますが、おそらくそれらを検索する意識は、あまり身近ではない以下の単語が含まれているためかと思われます。これらの単語には別の意図(たとえば「弓道」に関連付いた文言)が付加されることもあります。

・進退周還:起居めぐる全てにおいて
・体直く:体作は素直で無駄がない
・審固:理屈にかなった様子
・仁:自他へのありのままの気づかい
・而して:そうして












# by otherpost | 2019-07-31 20:10 | 弓道