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竹の階段

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竹林派のかたち

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日置流竹林派の流派系統がよくわからないという人のために、最初期の流れをかんたんにまとめてみました。


■初代【石堂竹林 如成】(-1591)
一篇射(本書の原本、案)を作成。
近江国石堂村の北村某(父)と北原某(母)の間に生まれる。
子は長男・新三郎と次男・貞次。
別称:石堂竹林坊如成、竹林坊如成、北村竹林坊、北原竹林坊、竹林坊。

■【石堂新三郎】(-1616)
長男。父に弓を習わず、跡を継がず。越前で乗った船が沈む。
別称:石堂竹林(自称)。

■二代目【石堂林左衛門 貞次】(-1649)
次男。跡継ぎ。竹林派を名乗る。本書(四巻の書+灌頂の巻)を作成。
仏教等に則した流派を作るためであり、姿勢として既存の弓術用語はあえて排斥する。
1602年、喜多村竹林の名で清洲藩藩主・松平忠吉に仕える。
1610年、尾張藩初代藩主・徳川義直に仕える。尾張藩の初代弓矢奉行(1635年)。
屋敷は現在の愛知県名古屋市中区栄一丁目。
別称:石堂竹林、石堂竹林貞次、竹林貞次、石堂弥蔵貞次、石堂弥蔵、弥蔵為貞。


ここで尾張藩竹林家は断絶しました。
いちおう家系的な「正統」は以下のようになっています。

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■三代目【石堂林左衛門 貞直】
二代目の子。貞和とも。

■四代目【石堂林左衛門 如良】
三代目の子。自殺する。

■五代目【石堂林太夫 貞祖】
二代目の次女の子。兵太夫(三代目の兄)の養子。

■六代目【石堂林太夫 貞演】
五代目の子。

■七代目【石堂林太夫 意如】
六代目の子。

■八代目【石堂林太夫 貞並】
七代目の子。
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さて、二代目(貞次)から印可を受けた者、さらにその先となればもうすごくすごく大量にいます。
当たり前ですが、全ての系統が「正統」を名乗っています。
そのうち、有名なのは以下の4系統になります。

◇尾州竹林岡部系統の一つ
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■三代目【岡部藤左衛門 忠次】(-1692)
二代目の高弟。尾張藩の弓矢奉行。二代目の長女の夫(のちに次女の夫)。

■四代目【朝倉忠兵衛 中海】(-1712)
尾張藩の弓矢奉行。本書の注釈を作る。

■五代目【朝倉忠兵衛 博正】(-1744)
尾張藩の弓矢奉行。
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◇尾州竹林長屋系統の一つ
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■三代目【長屋六左衛門 忠重】(-1685)
父・長屋忠左衛門忠久(-1673)とともに二代目の高弟。1633年印可。
カケ帽子の角を創案。通し矢の天下一に三度なる(1637年、1639年、1640年)。

■四代目【星野勘左衛門 茂則】(-1696)
本書の注釈を作る。通し矢の天下一に二度なる(1662年、1669年)。
弟子の一人に江戸竹林を興す浪人渡辺甚右衛門寛がいる(いちおう本多流の源流)。

■五代目【星野勘左衛門 則春】(-1699)
星野派徳風会にいたる流れ。
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◇紀州竹林
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■三代目【瓦林与次右衛門 成直】
紀州藩士。二代目の一番弟子。尾林与次右衛門とも。「自他射学師弟問答」を書く。紀州竹林派の祖。
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◇紀州竹林
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■三代目【飯沼林右衛門 守明】(-1702)
二代目の高弟。

■四代目【佐竹源太夫 吉金】
紀州藩士。佐竹義昌の次男・佐竹源太夫義和の子。

■五代目【吉見台右衛門 経武】(-1706)
紀州藩士。本書の注釈を作る。吉見順正とも。1656年に通し矢の天下一になる。

■六代目【和佐大八郎 範遠】(-1713)
紀州藩士。1686年に通し矢の天下一になる(最終記録保持者)。
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江戸時代の竹林派弓人の活躍(通し矢)によって「二代目」までは伝説となり、様々な解釈とともに広まっていきました。人は交錯するものなので単純ではないのだけれど、初期の頃はこんな形です。伝説に関しては研究者ごとにさまざまな意見があると思います。初代(如成)の没年には1591年頃と1605年頃の説がありますが私は前者を、二代目(貞次)の生年には1573年頃と1583年頃の説がありますが私は後者を採っております。このあたりの構図は1593年に後継と定めて拙著の前書に記した通りです。

現在の弓界における竹林派の存在感は、明治時代以降の本多流流祖のカリスマ的影響力および、山東の紀州系統伝書から発した宇野の「射法訓」の影響から生まれています。伝統的に日置流は江戸時代に小笠原流から習った体配を使用していますが、近代の弓道組織は直接小笠原流の体配を取り入れたため、時間をかけて独自のものに形を変えてきた「日置流の体配」は貴重なものになってしまいました。しかし射法に関してはこの日置流竹林派伝書を中心とした理念が席巻しており、これから先、揺らぐことはないでしょう。


※最後の文章、簡単に書きすぎて語弊があると思ったので追記すると、尾州竹林流星野派を継ぐ徳風会を創った冨田常正氏(亡くなる前日に範士九段を受ける)は小笠原清道氏と小笠原清明氏に射礼を習い、続く魚住文衛氏(範士十段)もそれに倣って小笠原流に入門しています(歩射重籐弓格免許)。ほかの日置各流派に比べて蹲(つくばい)等本来の形に近いのはその所為だと思われます(資料:「弓道」1960年2月号/「糾方」第33号)。そもそも蹲に関して小笠原流の鱸重康氏は、かつて以下のように斜面打ち起こしを自身適当とも述べているため、日置流独自の体配の必要性については検分の余地があるかなと思うこともあります。「当流はもろ打おこしを常法(または前打おこしともいう)とするも、勁弓を執るとき、天井の低き道場または踞射、堅物射抜き等の場合に於いては、片打おこしに依るを適当とす。一流一派の定型に執着するは武道の本義にあらず。片打おこしなる故に日置流なり、もろ打おこしなるが故に小笠原流なりというが如きは、武道の本義を解せざるものなり。時機と場合とにより二様の打おこしを併用すべし」(「弓道」1954年10月号)。















# by otherpost | 2019-04-27 19:22 | 四巻の書 | Comments(0)

つきとばされる男たち

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秋篠寺の本堂の床下の、かびくさい暗がりには、蟻地獄が点々と巣をいとなんでいる。私は秋になる毎に訪れて、途々ひきちぎってきた曼珠沙華の花梗で、この哀れな砂の城を存分にさいなむ。遁げまどう醜い幼虫を半殺しにして、永い時間をたのしみ、伎芸天はかえりぎわに、それも燭台の釘の林の間から、ちらとかいまみるにとどめる。他の風物に一切興味はない。かえりなんいざ、と小一時間後に床下をのぞくと、褪朱の花弁にまみれながら、惨劇のあとは、ふたたび徐ろに復元されつつある。田舎道にはフォルクス・ワーゲンから、オートバイをふくむ埃に汚れた車どもが、いぎたなく駐められ、汗臭い高校生の一群が「ブルー・シャトー」などを調子はずれに合唱しながら、私をつきとばすようにして境内になだれこむ。床下の蟻地獄は発見されないだろう。花の血で荒らされた、砂の砦の乾いたなまぐささに興味はあるまい。汝、苦しんで薄翅蜉蝣に変身せよ。

塚本邦雄評論集「定型幻視論」(1972年10月30日発行/人文書院より
※初出:現代文学大系68「現代歌集」月報(1968年5月発行/筑摩書房)

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塚本邦雄による評論集、書き出しの名文。口に出して読むとなおよく笑みがこぼれる。高校生たちののたもう歌詞を「ナンバーワンにならなくてもいい」などと変えれば「平成」になるだろうか。

先日、全日本弓道連盟初代会長の回想を投稿したところで、思いだしたので紹介したく載せた。






# by otherpost | 2019-04-17 22:41 | その他 | Comments(0)

宇野要三郎・作「射法訓」について

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弓道における「礼記射義」は連盟会員の心としての"抜粋"であった。本体は以前に書いたとおり。では「射法訓」はどうだろう。これの意図は連盟会員への”射法”の基本と意識としての”残心”の啓蒙である。今回は「射法訓」(しゃほうくん)ができるまでについて。


射法しゃほうは、ゆみずしてほねることもっと肝要かんようなり. こころ総体そうたい中央ちゅうおうき、しこうして弓手ゆんで三分さんぶんつるし、妻手めて三分さんぶんいちゆみき、しこうしてこころおさ和合わごうなり. しかのちむね中筋なかすじしたがい、よろしく左右さゆうわかるるごとくこれをはなつべし. しょいわ鉄石てっせき相剋あいこくしてづることきゅうなり. すなわ金体きんたい白色はくしょく西にし半月はんげつくらいなり.



この内容が宇野要三郎(1878-1969)の全くの創作かというと、そうではない。紀州竹林の伝書を中心として組み立てたので「吉見順正の遺訓」としている。宇野は当月のみずからの名古屋武徳会審査講演記録を載せた文章中、「今日なお記憶している故人の遺訓の中で、吉見團右衛門の教えに忘れがたいものがある」「その遺訓は次のごとくであったと記憶している」として以下のプロトタイプを発表した。内容はもちろん、この発表のしかたが、紀州竹林派伝書第一の研究者を共犯関係にし、確固たるものとして進んでしまうのである。

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射は弓を射ず骨を射る事肝要なり、
心を総体の中央に置き、弓手三分の二弦を押し、馬手三分の一弓を引く
而して心を収むる是れ和合なり、
而して後に胸の中筋に従ひ、
左右に分つが如く之を放つ可し、
書に曰く鉄石相剋して火の出つる事急なり、
即ち金体白色西半月の位也
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※「日本の弓道」1943年7月発行号より


前投稿でも記事を引用した「日本の弓道」(日本之弓道)という戦中に刊行されていた薄い冊子がある。同誌には、宇野と同じく紀州竹林派に傾倒していた山東直三(1883-1967)による連載も載っている。同じ文章内で「私は約40年弓に親しんできたが、弓書を研究し、渉猟するなどについて多くの時間を持ちえなかった」と語る宇野とはことなり、山東は和歌山県に住み(晩年は兵庫県芦屋市竹園町)、吉見の印可を受けた和佐大八郎の「本書開口伝」を所有(のちに破壊し手放したのがこれかしら)、よく研究し、1933年には研究書を完成させている(これを清書した書籍の発行は1957年)。その紀州系統の「灌頂の巻」に「三心相引口伝大事」と題した重要な文言がある。「弦を引は弓手に、弓を引は妻手に、いづれも入合て陰陽和合ぞ。骨を引く伝也。弓は弦、弦は弓の事」。この"書きかた"に以下の理念を組み合わせたものが、前半の中心となる。プロトタイプ発表の4ヶ月前、同誌に載った山東の記事である。(私は以前の記事の中で「三分の二」という表現をつかった吉見順正に違和感をもったが、その答えでもあるだろう)

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竹林派では、引取において大三すなわち押大目引三分一とて、左手を父として剛く、右手を母として弱く、押手へ三分の二、懸手へ三分の一の力にて、引取りから抱への間、その関係が継続するのである。これは等分に引分けたなれば、押手は延びているから弱く、勝手が強すぎる。而して己ならずおおよそ何人も、右手に比し左手の弱いものである。ゆえに左手のほうを強くしなければ均衡がとれない。加うるに、射は支点が大切である。いかに射をおこなうといえども、支点において動揺してはその目的を失うこというまでもない。大三の必要なるゆえんである。而して己ならず、離れに際して法流ということをおこないて、なおいっそう押手を強くするのである。そのところで手繰ったならば、引取りの初めからその心を失うはもちろん、抱えの間において懸手が強い力で弦を引いているから、その七三の均衡が取りづらい。その強い勝手に釣り合わさんとすれば、非常に多くの力を押手へ使用しなければならぬ。したがって自分の力量相応の弓を操縦することができない。弱弓に甘んぜなければならぬゆえんである。弱弓に多くの努力を払うことの無用なるは申すまでもない。それよりは懸手を詰めて、自己天稟の力量を合理的に使用すべきである。それで弓も楽に引け、射もまた立派になる。
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※「日本の弓道」1943年3月発行号より


また、少し後になるが、山東があえて以下のような「口伝」資料を掲載している。1943年2月発行号で予告していた、自らの記事の根拠の掲載であった。これが出だしの部分「弓を射ずして骨を射る」であるため、事前に宇野に資料を示し共有していた可能性がある。手相、人相、骨相、「骨相筋道」は自身の骨格を芯として筋(すじ)を添わせ、その本来の素直な方向(伸び)に則して啐啄同時相応に肉を使う(詰め)といった基本理念のこと(拙著参照)。

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そもそも骨相筋道というは、射形の始中終にあることなり。当家は弓を射ずして骨を射るにあり。ゆえに骨のつがいの合うと合わざるとを知ること、さて筋の延びると延びざるとを身におこない覚えることを第一に好むことなり。
七道に五部の詰の沙汰なし。しかるに五部の詰は八方詰の中にて、右肩、左肩、剛、懸、胸の、この五つの詰をいうなり。左ありしところに、今ここに、七道の五部の詰というは、足踏、弓構、胴造、引取、打起、この五味七道がたがいなく揃い立ちしところのその上にて、五部の詰の第一詰まり詰まりて胸にて真中より左右へ別れ離るるその味にて、会、離の二つの調い育つものなれば、この心を以てしかいう。
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※「日本の弓道」1943年9月発行号より
※「弓道・上」山東直三(1957年)のP128にも載る


作文はここで終了し、「書に曰く~」以降は「四巻の書」の文言をそのまま載せたものになる。これは「鉄石~」を”離れ”、「金体~」を”残心”として組み立てたものだ。その意図が判明するのは、戦後の1954年に宇野が新たに発表した「吉見順正射法訓私解」であり、そこに付属する解説文にあった。本文その名も「射法訓」。標語っぽく漢文体のものをつくり、書き出しは「射法は…」に、また強調する句”最も”などを付け足している。

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射法訓
射法者不射弓而射骨最肝要也
置心於総体之中央
而弓手三分二推弦妻手三分一引弓
而納心是和合也
而後従胸中筋宜如分于左右離之
書曰鉄石相剋火之出事急也
即金体白色西半月之位也

書き下し文
射法は弓を射ずして骨を射ること最も肝要なり
心を総体の中央に置き
而して弓手三分の二弦を推し、妻手(めて)三分の一弓を引く
而して心を納む、これ和合なり
而して後、胸の中筋(なかすぢ)に従い、左右に分るる如く之を離つべし
書に曰く「鉄石相剋して火の出づること急なり」と
即ち金体白色(はくじき)、西半月の位なり
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※「月刊弓道」1954年2月号より
※1962年2月発行の冊子「弓道の基本体型」にも収録
※2004年1月発行の冊子「礼記射義解・射法訓解」にも収録


これに付属する解説文で宇野は「金体白色西半月」の"金体"に対して、「金星を指すものと思う」と独自の意味づけをした。”残心”啓蒙のための構成は、この"釈迦の悟りの瞬間の金星"を創作、発表することによってひととおり完成したのである。ただ、金体は離れの刹那、"刃金"の体のことだと、大本の「四巻の書」にきちんと記されている(拙著参照)。宇野が伝書をよく知らなかったと考えるよりも、これはあえて意図のとおりに構成および解釈までを組み立てた確信犯的なものであった。伝統理念として、弓を引くということの全ては矢の離れる瞬間に集約されるべきであって、実際には残心で完成するものではない。のちに浦上栄(1882-1971)が1934年射形統一時に自分が提案し幸い取り入れられたと自著で自慢するにいたる"残心"は、時代の弓人に最重要なものとして意識され、宇野のように「八道」と呼称する者があらわれ、とうとう射法は"残身"という形を追加した「八節」となるのである。宇野思想の集大成「射法訓」および、そこから産み落とされたヴィーナスは、弓道教本の改訂によって後世に歴然と輝いたのである。

近年、宇野と同じような手法で現代人が組み立てたとみられる「射法訓前文」(射法訓全文?)なるものがインターネットに出回っている。宇野には集団として”射法”と”残心”を根付かせたいといった大きな目的があったが、このただ質がよくないだけの「前文」作成の目的はいったいなんであろう。早期の終息を願う。


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今月は伊勢神宮、来月は香取神宮、武蔵一宮氷川神社での神事に参加する。













# by otherpost | 2019-04-04 19:28 | 弓道 | Comments(0)

過分

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「女子弓界の負荷は大なり」宇野 要三郎(弓道範士十段)

私はかつてニューヨークにあり、友人三人と道を散歩していた時のことであった。突然背後から私を抜き飛ばすようにして、前方に行き過ぎた米国婦人があった。狭い道であったから横から通り抜けられないとしても、日本婦人であれば必ずや相当の態度と、儀礼と、方法をもって円満にこの場合に処したことを私は疑わない。想うに当時あくまで思い上がっていた米国女性。今もなお互譲、正義の何ものたるかをもわきまえぬ彼ら女性は、もとより弓を知らない、足踏、胴造りも解さない、果然天譴は下りつつあるが。

由来日本の女性は家庭における一方的な消費者で、古来ほとんど生産面に大きく活躍する機会に恵まれなかったのである。これにおいてか忍従にしてよく困苦にたえ、良心的な内省に鋭敏で慈愛に富み、挙措優雅で子女を慈しみ、夫に内顧の憂いなかしめたのであるが、臨機応変の果断と気迫に欠けるうらみがあった。今日すでに決戦態勢の整備に、銃後生産陣の強化に進出し、有髯男子の職域の一部を代行し、みずからの力によって国家奉仕の女性の分野を打開し、大戦の完勝を確信して雄々しく起こったのであるから、従来の引っ込み思案と歯切れの悪い態度とを清算し、撃ちてし止まんの気迫を養わねばならない。

この点にたいして、動く相手に処する他の武道は、その気迫においても相手によりて誘発される場合はあるが、動かぬ的に対する気迫は、ことごとく自家内心から爆発する気迫で、真に気迫を養わんとすれば弓を第一に推すごときであると、弓人にして後に剣を学んだ人から聞いたことがある。女性はよくこの理をわきまえ、この気迫を内に蔵して後にほかに処してもらいたい。すなわち冒すべからざる威厳と気迫を柔和な外容につつみ、外柔内剛、不屈不撓の信念に燃える伝統的な日本婦人でありたいのである。

最後になお一つ殊に留意すべき問題がある。それは弓を引くときと家庭にいるときと、同一な心事と態度でなければならないことである。道場と家庭とを同一化し、弓道的生活を具現しなければならない。これは女性として最も肝要なことで、道場通いや弓を稽古するために家庭をかえりみないというごときことが多少でもあるとしたならば、それは弓引きの風上どころか風下にも置けない女性である。彼は女の弓引きだと隣組から指弾されることは弓界の一大恥辱である。

※「日本の弓道」(1943年11月発行)より引用抜粋

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我が意に沿わぬ存在を恨み、我が意に沿わぬ存在を恥とする。
現在でも日本の武徳が許容する一面とみる。

ここで"恥辱"とされている行動を生涯立派に成し遂げた戦後弓道界巨星の言葉が残された。
「多くの過ちを犯してきた私には、過去を振り返ることによって、私の進むべき未来への道筋が示されている」
それでも人に求める心を自らに求めたいものである。
鴨川範士十段、享年95。ご冥福をお祈りしたい。












# by otherpost | 2019-03-26 08:19 | 弓道 | Comments(0)

「礼記射義」ができるまで

弓道における「礼記射義」の本体について

以前のこの投稿は「射学正宗に載っている礼記の文章、とても良いよね」と、弓人の精神の拠りどころとして広まっていったのだという経緯が伝わればという思いで書いたので、けっして「射学正宗」を読んだほうがいいとか、「礼記」(射義)は全文読まなきゃだめだとか、そんなことは思っておりません。意味や背景を極端に重要視するのではなく、「(弓道場に掲げられている)礼記射義、好きだなあ」と素直に感じていただいて、私は十分だと思っています。最終的には以下の稿がツナギとなり、現在の「礼記射義」になっています。
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※弓道に就て/佐藤弘(「射覚」1931年9月号P12-13)













# by otherpost | 2019-01-29 02:52 | 弓道 | Comments(0)

弓道における正しい帯、袴のつけ方

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まず帯は腰骨をおおうように三巻きし、後ろでひと結びする。
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帯の先は両方とも帯全体の上からくぐらせ、下から出し二本垂れるようにする。
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両手で袴の前をもち、左足を入れ、つぎに右足を入れる。

帯の上辺から五分(1.5cm)ほど下がったところに前袴をあてる。
※日弓連では帯の上辺に前袴をピッタリと重ねてつける。これだと武家の着付けではなくなってしまうが、能楽と同じく裾を踏むなどして前帯を多く出してしまう着崩れを考慮してのことだろう。そのため、前帯が少しみえるだけで誰かに注意されてしまうことがある(落ち込んでしまう)対策として、帯の上辺以上にまで前袴をかぶせてしまう人がいるが、それでは下腹がぽっこりしてみえてしまう。本来男女ともに前帯はちらっと見えていたほうが美しくかっこいいとされる。

前紐を後ろにまわし、左紐を上に、右紐を下にして交差し前にもってくる。

右紐は前袴の紐付から五分(1.5cm)ほど下げて左脇までまわし、左紐の上に交差する。

左右紐を持ち替えて斜めに折り返し、前部紐に重なるようにして後ろにまわす。
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紐を後ろでちょうちょ結びする。
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下がっている帯を袴の紐を巻きこむように左右にぐるぐると巻きつける。
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その真ん中に、後腰板をしっかりのせる。
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両紐を前にまわして左紐を上に右紐を下にして前紐にくぐらせ真結びにする。

紐の両端は左右の腰まで伸ばし、左右の下紐に下から挟む。
この後、日弓連の場合は紐先を後袴の内に入れる。これは紐が邪魔になるのを考慮したものと思われる(ぷらんと紐のはずれてしまう者の増加防止策か)。そのため、紐先が後袴から顔をだしてしまう場合の対策として、下紐にひとつふたつ絡めてから紐先を後袴内におさめる人も多い。

完成。


この袴のつけ方の特長としては、帯と袴の紐を後ろで絡めることで、袴を下に引っ張るなどしても着崩れにくいようになっている。また、帯の土台が背にあるため、腰椎をおおう袴腰がしっかりと腰板の役目をする。江戸時代の市井の武士はゆるく着物・帯・袴をつけていたこともあり、現代でもちょっとしたことですぐ帯が解けてしまうようにつける人がある。また、浦上栄氏のように江戸時代に流行した前紐を十字につくる(または前でまとめてしまう)人もいる。袴のつけ方に関しては今でも我流が多いと思うので、参考にしてほしいと思う。解説はとりあえず男性の場合のみとした。

注意点として、帯、袴をつけている間は身体ができるだけ動かないようにすること。そうでないときちんと締まらず、あとにゆるみ着崩れやすくなる(衣をととのえる回数が増えてしまう)。そのためには、最中、足は肩幅にひらき、肩線の平衡を守りうごかさず、首はできるだけ前や下に傾けないことが望ましい。足袋は最初に履いておくこと。



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上に写真を引用した書籍「弓道」(小笠原清信/1974年11月20日発行/講談社スポーツシリーズ)について紹介する。

表紙は小笠原清忠氏(若い頃の三十一世宗家)、その後ろに鈴木謙仁氏。1982年の第7刷からの表紙は著者の小笠原清信氏(三十世宗家)に変わる。内容は弓道全般にわたるが、当時の小笠原流宗家自らが裸になり射法の動きを示すなど、視覚的にも充実した内容となっている。小笠原流の礼法をとりいれることで現代武道となった弓道である。武道であるからにはこの本に載る武家小笠原の袴のつけ方こそ、唯一間違いのない方法ととらえてもかまわないだろう。現在すでに絶版であるが、名著であるので機会があれば入手をお勧めしたい。以下は当時の全日本弓道連盟会長・中野慶吉氏による推薦文。

前々から連盟の理事会や指導委員会のあるたびに、全くの初心者、これから弓を習いはじめる人のための指導書がほしいと、つねに要望していた。全国の愛好者からも、はじめて弓をとったときから的に向かうまでの指導書ができないものかという問合せが連盟に数多くよせられている。本書の著者、小笠原氏には会うたびに、まだかまだかと請求していたのである。そういう時に、過日急に全くの初心者のための技術書を講談社から出版するという話を聞いた。重い腰をあげて自ら写真の被写体となって取り組んだという。新しい連盟への出発のとき、ことに学校弓道の普及が急務であるとき、このような出版がなされたということは、連盟として誠にありがたいことである。学校に大いに普及し、正しい弓道の普及・弓道人口の増加のために役立たせてもらいたいものである。



解説・写真は、以下の各書各項も併せて参照した。このうち、書籍「武道の礼法」は現在でも平易入手可能である。



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※「禮法教科書」下篇(小笠原清明/村田志賀/1928年8月28日発行/冨山房)P40-41
※「女子禮法教科書」(小笠原清明/村田志賀/1931年11月25日発行/冨山房)P161-162も同一

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※「姿」第3号(1960年6月30日発行/弓馬術礼法小笠原教場)P25-26

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※「小笠原流マナー」(小笠原清信/1974年5月25日発行/マイライフシリーズ29)P58-59

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※「日本の礼法」(小笠原清信/1975年10月15日発行/講談社)P183-186

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※「小笠原流礼法入門」(小笠原清信/1975年10月20日発行/婦人画報社)P91-92

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※「立居振舞-舞台に立つときのために」(小笠原清信/1987年6月発行/吟濤社)P128-130
※「立居振舞」(小笠原清信/1978年1月10日発行/興吟書院)P97-98も同一

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※「武道の礼法」(小笠原清忠/2010年2月10日発行/日本武道館)P254-257

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※「糾方」47号(小笠原清基/2015年5月1日発行/弓馬術礼法小笠原教場)P14-15










# by otherpost | 2018-05-08 23:33 | 弓道 | Comments(0)

存在しない菊理媛神について

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数年前、菊理媛神(くくりひめかみ)の姿について少し調べたことがある。
その鱗片が以下のコラム。


【Celebration】菊理媛神(ククリヒメノカミ) by Umi
(意識は他物にも移るもので、この勢いを引きずり書いたのが以前の投稿であった)


そもそもみなさん菊理媛神が存在するという前提で語っているわけだから
「謎が多い女神」とか「どんな姿の神様か」という話になる。

イザナミの発した発言を指しての「菊理」という文字の研究でないと
イザナミ発言の価値がそがれてしまう。

イザナギがよくもわからない別の言葉を善しとして立ち去ることこそに
疑問をもつべきではないだろうか。

納得するは真理を得るとは無関係である。ただ納得は人を解放してくれる。
その後、「わかった気」の先入観は成長、追究を留まらせるのである。



イザナミ(媛神)の心を会得してイザナギは去った。
物語上、それだけのことであろう。

宇宙とは完全が展開している今の流れである。
記憶は常に今から今にむかい構築される。
構築をやめたとき、記憶は消える。

人間であればこの世界は人間の記憶が構築し、
それが私であれば、この世界は私の記憶からの反応が引き起こしている。
過去の遺物と定義されうるものも今あるものをもって記憶の補完となる。

その上で新たな思考反応は、流れに寄り添う。その流れが宇宙である。
この目前にあらわれている仕組みそのものである。

思い出すというのは構築する作業である。
構築をやめれば、世界は自由に輝く。

世界は流れている。彼は迷い故に諭された。
安心の中にいるものが安心を求めようか。
生死は心残し捕らわれるものではなく「在るものだ」という、
絶対死中にいる彼女の理(すじみち)たる心をうけ(ウク)て
または解釈としてその九九(最大数)の理によって
彼(イザナギ)の宇宙は解放されたのである。


これは現状独論だと思っていたが、そうでもなかったようだ。
素直な結論は、現在ウィキペディア「菊理媛神」項に追加されている以下の資料にもあった。

「垂加神道」上巻(井上哲次郎,上田萬年/1935年/春陽堂)
(ただこの資料は一部解釈に新しいキクの音を使ってしまっている)


「縁結びの神」なんていう存在の構築が助長する
とらぬたぬきのたぬざんようは無意味だというお話でした。

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※「時代別国語大辞典上代編」(澤瀉久孝/上代語辞典編修委員会/三省堂)より









# by otherpost | 2018-04-25 22:20 | その他 | Comments(0)

縮刷言海

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※「縮刷言海」初版(大槻文彦/明治37年2月25日発行/1904年)


三種類ある『言海』のうち最もたくさん出回ったのは「小形」だろう。その小ささ、そして安さから言って、「小形」の版が最も愛されたのではないかと思う。これまで百年にわたり、何百万か、何千万かの人々が「小形」の『言海』を机辺に備え、あるいは手のひらに載せてきただろう。
※ちくま文芸文庫『言海』(2004年)解説より


小形言海という呼称もあるが、ここでは初版本の奥付にある「縮刷言海」(しゅくさつげんかい)の名で呼ぶことにする。


本棚にあると一番すごい本はなんだろうと考えたことがある。絵に描いたような、素朴な大学教授(老人!)の書斎に一番似合うような、手に取ると内側から無理なく自然と広がっていくような、そんなのにぴったりな本はなんだろう。専門書や全集、豪華な本、高価な本はすごいけれど、おおげさだし、なんだか落ち着かない。そこで恒久的な「辞書」。誰もが知っていて、しかも誰にも身近な国語辞典。日本最初の近代的な、そのうち実際に一般に広まり、これを身近にさせた一冊本「縮刷言海」。縮刷言海初版本はそういう意識をもって手に入れたものなので、自己満足以外の何ものでもないけれど、いまでは本棚がとても輝いてみえる。ぼろぼろになるんじゃないかというくらい取り出してパラパラしている。ほかの「言海」には興味はない。読んでいるのは本の内容ではなく雰囲気である。

縮刷言海の売れ行きは好調で、次の年の末には第150版を出している。内容に「カムイ(名)蝦夷語、神。カモイ。」とあるけれど、これは水木しげるの「カモイ伝」(1965年10月25日作品)がけっして間違いではないのだという証明になるのでは。などとどうでもいいことまで考えてみたり。


ちくま文芸文庫版「言海」(2004年)は、昭和6年(1931年)の縮刷言海第628刷を中心として、印刷状態の悪い部分は他の版を使用したキメラになっている。そういった次第なので、書籍のコピーには「縮刷版(明治37年)の内容をそのままの大きさで覆製」とあっても、論文の引用などとしてこの文庫版の内容をもとに「明治37年発行の小形言海によると・・」などという使い方は厳密にはしないほうがいいと思う(そういうものを今までたくさんみてきた)。どうしても明治の縮刷言海の内容記述がすぐに確実なものとして必要な場合(そんなことあるのだろうか)は、ここで明治40年(1907年)発行の第160版が読めるので参考にするとよい。ただ、もともと公的機関(裁判所)所蔵の本なのでかなりぼろぼろである。初版本になると国会図書館にもなく、ウェブ上にも公開されているものはないので、記述確認が必要な場合は必要箇所の画像をここにアップするのでご連絡いただければと思う。

縮刷言海には、もうひとまわり大きな型のものが明治42年(1909年)に発行されている(俗にいう「中形」)。昭和24年(1949年)に「小形」「中形」の発行部数を合わせた縮刷言海の第1000版(この版数はテキトウらしい)が発行されている。



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※画像は全て縮刷言海初版本から
(緑色クロス装、高さ153mm、幅52mm、奥行123mm)








# by otherpost | 2018-04-12 21:05 | その他 | Comments(0)

弓道の原点 四巻の書

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絶版してから数年がたち、「読めない」の声が多くなりましたので電子書籍化しました。
パソコンやケイタイなら買った瞬間に読むことができます。
パソコンやタブレットでなければ文字が小さくて読みづらいかもしれません。
思い出したときにケイタイでちょこちょこ読めるかもしれません。





編著というものを読んでいただく場合、読者がかんたんに原書に触れることが出来なければならない、という愚見から、本書では江戸期の巻子など古いものにこだわらず、一般に公開されている明治期の和本を底本とするにいたりました。底本をあえて国会図書館蔵本の「11月18日発行」と記したのも、「射法訓」を漢文調や全文調(?)のものではなく一般に掲げられているものを「まえがき」に載せたのも、同じ理由によります。

この本の原書は今から数百年さかのぼったところのものなので、弓道知識をもとに弓書を語る本ではなく、仏教その他をもとにして理解する本になっております。自分の思い通りでない原文を間違いと定めることや、知る言葉に関しては言葉を費やして脱線してしまうような解しかたを否とさだめ、内容の解釈としましては全肯定を信念として訳しました。その結果、伝書内に一貫して響いている理念を浮かび上がらせること、言葉の一つ一つを平等によみがえらせることができたのではないかと思っています。

刊行後、ある先生にかっての底本(関口源太編)批判の記事をみせていただき、「批判されている部分はきれいにクリアされていますね」というありがたいお言葉もいただきました。また、拙著を読んでいただいた方から「表紙が弓道らしくないのはどうか」といったお言葉をいただきましたので、今回は表紙を弓道調にしてみました。「一部の人しか手を出さないタイトルだ」とも助言を受けましたので、サブタイトルを先に出しました。


せっかくなので以前書いたままぷかぷかしていた雑文を以下にまとめてさらしてしまおうと思います。

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◆「引く矢束」「引かぬ矢束」「ただ矢束」について

人間にかぎらず、いきものは自らの価値観を確認せんがために、複数あればそのうちの一つを選び出したくなるが、もちろん『四巻の書』はそのような先入観構築のためにものされてはいない。私たちはただ、自らに植えつけた先入観をもとに反応しているにすぎず、この書が自我による判断などという迷いの根源に寄り添い語りかけるはずもない。ただしく楔とする「引く矢束」(つめ)、素直な結果としてたまわる「引かぬ矢束」(のび)、そしてその兼ね合いとしての浮世「ただ矢束」。この3つの間に優劣をみてしまったならば、それはただの文字になってしまう。『四巻の書』は、修行の中にいる私たちが永遠に宿しつづける箴言を、つづり授くのみである。

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◆「押大目、引三分の一」について

大目というのは仏教的には「全てを平等にみる目」のことで、これは拙書籍の解説内でも述べた。また、同じく解説内で述べたことに「三界」がある。仏教語の「三界」は、欲界(欲望の世界)、色界(物質的現象世界)、無色界(精神的抽象世界)、といった三つの世界の総称で、「この世のすべて」を意味する。これに則って『四巻の書』では大身体を「三体」、修行における罹患を「三病」と表現している。さて、そういった意味で「引三分の一」というのは、はたして「三分の二」と相対とされる言葉であろうか。私はそうは思えない。私は吉見順正という人は仏教的な素養は(少なくとも「射法訓」を綴った時点では)あまりなかったのではないかと思っている。

※補足:各時代の『四巻の書』内の記述としては「大目」「大め」「大メ」とある。この言葉は文中から取り出され弓道語化し、なんだかすごそうに「だいもく」と呼ばれ出した。これは弓道語としてハクをつけるための呼びかたであり、まずそれ以上の理由はない。

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◆「相剋」(相尅)について

いうまでもなく、読みは昔から「そうこく」である。全日本弓道連盟「射法訓」内、これに「あいこく」とルビがあるのはなぜだろう。ただ、夏目漱石の小説など一部にこのルビが存在することから、明治末より大正までの一時期、この「あいこくする」といった話語が一般的に一部主導権を得ていたのではないか。もしかすると当時、「愛国」という言語りに耳慣れていた結果なのかもしれない。この時代に青春を過ごしたものが大成した時代の顛末とみている。

※補足:そもそもこの掲示用「射法訓」は文語調であるのに現代かなづかいなのでかっこがつかない。「従ひ」「出づる」としたほうがいいと思う。

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◆「五輪の書」(宮本武蔵)と「四巻の書」(竹林坊)

私がこの2つを近づけて想うにいたった類似点は以下。
・武道の善書とされる。
・生まれた時代が近い。
・いわゆる「文章の上手い」書ではない(専門家ではないので当然だが)。
・本人が書いていない(本人の名を上げて伝えることに現在すでに誤りとはなっていない)。

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※2018年3月、書影変更のついでに補足など一部追記しました。







# by otherpost | 2018-02-22 19:30 | 四巻の書 | Comments(2)

弓道における「礼記射義」の本体について

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戦後、日本の弓道界が正面に掲げた「礼記射義」(らいきしゃぎ)の内容は、そのまま見れば「礼記」第46編「射義」からのただの抜粋である。


(しゃ)進退(しんたい)周還(しゅうせん)(かなら)(れい)(あた)り、(うち)(こころざし)(ただ)しく、外体(そとたい)(なお)くして、(しか)(のち)弓矢(ゆみや)()ること審固(しんこ)なり. 弓矢(ゆみや)()ること審固(しんこ)にして、(しか)(のち)()って(あた)ると()うべし.これ()って徳行(とくこう)()るべし.

(しゃ)(じん)(みち)なり. (しゃ)(ただ)しきを(おのれ)(もと)む. (おのれ)(ただ)しくして(しこう)して(のち)(はっ)す. (はっ)して(あた)らざるときは、(すなわ)(おのれ)()(もの)(うら)みず. (かえ)ってこれを(おのれ)(もと)むるのみ.



「これは大事な部分を抜き出しているのだ」という意見をよく耳にするが、それでは「射義」の他の部分はなにかしら劣るという意味にも捉えられかねない。また、抄出である以上、象徴として掲げるには中途半端である。

そもそもどうしてこの部分が抜粋されているのだろうか。その答えとなるのが、江戸時代、日本の弓道に多大な影響をあたえた中国の書物の存在だ。明代の高穎(こうえい)という人による以下の書である。


武経射学正宗/ぶきょうしゃがくせいそう ※以下「射学正宗」と略す
武経射学正宗指迷集/ぶきょうしゃがくせいそうしめいしゅう ※以下「指迷集」と略す


高穎は射学入門として「射学正宗」(上:捷径門・中:弁惑門・下:択物門)を書き、続いてその指標として「指迷集」(序・巻一・巻二・巻三・巻四・巻五)を書いた。これらは1637年に中国で刊行されたが、現在の中国国内にはその痕跡さえ残っていない。

日本では1780年に「射学正宗」が全2冊で刊行され、1785年に「指迷集」が全2冊で刊行された。以下はその日本最初の「指迷集」である。


◆「武經射學正宗指迷集」一冊目(序・巻一・巻二)A B
◆「武經射學正宗指迷集」二冊目(巻三・巻四・巻五)A B


「礼記射義」の内容は、この水端「巻一」の第一条と第二条が基になっており、「礼記射義」はまさにこの書への入口として存在している。つまり「射法訓」の本体として「四巻の書」があるように、「指迷集」に寄り添い掲げられたのが、「礼記射義」なのである。



「指迷集」巻一/第一条 ※以下、かんたん訳

孔子が矍相の地の畑で射る。見物人はとても多かった。その時孔子は孝弟忠信の道を説き、そして身を修めて学を好む筋道を説いた。また、別の日にはこう説いた。この射の筋道をもって戦をすれば敵なく、これを民にもてばよく治められると。

射はまさに一技である。孔子の述べた「孝弟忠信の身を修め、学を好む道をもつことでことごとく整う」とは一体どういうことだろう。射の道は外見はかんたんであっても、内側は細かに形動き神注ぐ。勇敢で鋭い技をもち、やわらかで、和やかで、落ち着いている、これが「孝弟忠信の道」なのではないか。二手に分かれて対峙したとしても、己に勝つ者を恨まず、我が身をかえりみて治め正そうとする、これを大事に思うことを求める。これを「身を修めて学を好む道」というのである。これを争いに用いて、その剛柔を並べ行なうのが仁の兵である。これに敵うものはない。これを民にもち、おだやかで正しいこと明らかであるのが礼儀の教えである。これが孔子の意とすることなのである。今、射の巧みな者がこの和らぎ睦まじい道を心にもてば、それが孝弟の行いである。この沈毅の道をもってその言葉を行なえば、それが忠信の友である。身に反する道を外れ、過ちを改めるならば、それが身を修めるのを好む士である。礼儀の教えを進め、兵を治め、民に臨んだならば、遠近すべてが悦びなつき、硬いものはほどける。国家がこのような者を得ることがはたして無益だろうか。



「指迷集」巻一/第二条 ※以下、かんたん訳

「礼記」にこうある。「射は進退めぐる全てにおいて礼にあたり、内は志正しく、外は体直くした結果、弓矢をはこぶことが審固になる。弓矢をはこぶこと審固であって、中ることを得る。これによる徳行を観るべきである」

射とは的に中てることである。しかし「進退めぐる全てにおいて礼にあたる」者の射は、心がそのまま技となる。射は並んで階をのぼり、階をくだり、左右めぐる全てにおいて一礼し、杯の礼が設けてあるわけであるから、その体裁をあがめ、神としてのその志を定めることが射というべきだろう。よって必ず「射は進退めぐる全てにおいて礼にあたる」でなければならないのである。

射は必ず「内志正しくした後に、弓矢をはこぶこと」でなければならない。また「外体直くした結果、弓矢をはこぶこと」が大事である。この二つの射中の妙法は、いつの世も変わることはない。それにもかかわらず、現代の者は努めて心の向かうところ正しくしようとはしているが、体直くして弓矢をはこぶ者はとても少ない。なぜならば、このことは書や文において未だに解説がないからであり、それゆえに、のちの世がこれを知ることもなかったのである。もちろん、古来の弓の名人がこれを人に示すものも残っていない。

結果「体直く」に対しては、まっすぐ立つことをいう者や、あるいは左のヒジから先を伸ばすことをいう者がある。これらはみな「体直く」の一つではあるが、その本質ではない。まっすぐ立つことは、ただ体の外形がまっすぐであるだけである。これでは弓矢をはこぶことにおいてなんの益もない。これが果たして「堅固」であろうか。左のヒジから先を伸ばすことを「直」とするものは、まさにそれが満ちる頃にはヒジの力尽き、必然としてふるえる。これでは「弓矢をはこぶこと固し」にはならない。

そもそも直というのは身を直くすることと、ヒジを捻ることにある。直の根本は左肩にあり、左肩を直にせず、悪戯に左ヒジを直にするのでは、根本なき直である。弓を引いて満ちる頃、左肩がそのまま上がってしまっては骨節に合わず、直にはならない。こういった次第であるので、肩を直する法はのちに記す「弓工の妻」の章と、入門「射学正宗」捷径門・弁惑門の郊射の章に詳しく書いた。

弓を引くことはこのようなものであるが、左右の肩とヒジの力を合わせ凝結して一片となり、平直であること平衡である。これが「外体直なり」なのである。体直にして弓を引く者は、矢尻が握りの中ほどに来たとき、左肩は下から上に達して左拳に送る、右ヒジは水流れ落ちるようにして、おもむろに矢は発す。狙いをつけるに高くも低くも自由である。まさに「弓矢をはこぶこと審固(理屈にかなった様子)」なのである。これにより「中ること(目的)を得る」のである。養いたくわえるその様な者は、必ず心をつくして学を好み、礼儀を楽しみ、和平、恭慶、心の向かうところ正しくする。ゆえに「これもって徳行を見るべし」という。このことは雑録四の巻の或門第八章と併せて読まれたい。これにより体直の全法を得るだろう。




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来月は護国神社で、再来月は明治神宮で神事の矢を射る。
一方は十五間よりずっと近く、一方は十五間よりずっと遠い。
距離と矢根の異なる実際としてあらためて流派弓事はありがたいと思う。




以下追記---------


※関連投稿→ 「礼記射義」ができるまで













# by otherpost | 2016-09-25 23:37 | 弓道 | Comments(0)